広大な緑に囲まれたこの甲斐の守護たる源氏武田家。その嫡男である晴信様に小姓として仕えて、早三年の時が経った。
晴信様は僕と四つしか離れていないものの聡明で学に優れ、勇猛果敢な戦上手であるのみならず下人や農民、忍びにさえも心を砕くお優しいお方だ。当主信虎様とは不仲のようだがよほどのことがない限り晴信様の地位は揺らぎようがなく、その小姓である僕もまた呆れるほどに平穏な日々を過ごしていた。だからこそだろうなのか。僕は先日、あることに気がついてしまった。
僕はまだ、晴信様が服を脱いだところを見たことがないのだ。
晴信様は着替えの際にはいつも人払いをなさる。風呂や沐浴どころか厠に行く時にすら人を近づけさせないのだ。それとなく奥方にも話を聞けば、やはり閨でも服を脱がないらしい。一時は女性なのではないかという噂も流れたが、確かに奥方から彼に似た御子が産まれればそんな声も上がらなくなった。
それでも晴信様が人に裸を見せることはなく、僕らもただ裸を晒すのが好きではないだけだと思考停止していたが、本当にそれだけなのだろうか。
晴信様は何故人前で服を脱がないのか?どのような体をしているのだろうか?
疑惑はどんどん大きくなり僕の手には負えなくなると、理性を他所に暴走を始めてしまった。
鳥のさえずりが木霊する中に、ぽたぽたと水が落ちる音が混じる。水を切り歩く逞しい背中は白い湯帷子に守られているが、水に浮かんだ布地は透けて既にその役目を放棄していた。ごくり、と唾を飲む音が思ったよりも響き、慌てて顔を引っ込めたものの晴信様の耳には届かなかったようで、彼はゆっくりと全身を泉につけたかと思うと大きく水を蹴った。
晴信様は以前、海が見たいと言っていた。陽光に輝く広大な水面の底には幾千もの生き物が住み人智の及ばない別世界を作り上げているそうだが、学のない僕には想像もつかない。海を見るためには甲斐の山々を越え今川の地を進まなければならないということも現実味がない一因だろう。今川とは同盟を結んでいるとはいえ他家の者がそこまで深く領内を進むことは許されるはずもなく、海を見るということは即ち今川を併合するということだ。晴信様の展望の大きさの裏返しともいえるが、現状では絵にかいた餅だと本人もよく分かっているはずである。しかし、彼は今まるで大海原を行くように悠然と水を掻いていた。
惚けている僕を他所に晴信様は大きな音を立てて上体を逸らすと、四肢にまとわりついた着物にそっと手を掛ける。豊かに発達した胸は力強く、肉付きが良いものの引き締まった腰にまとわりついた半透明の生地が艶めかしい。弾力のある尻肉が見えていることから、褌はつけていないようだ。喉が大きく鳴っても身を隠せない。彼の体から目が離せない。一刻でも長くこの目にその姿を焼きつけたい。
その時だった。
「源助?」
こんなところでどうしたんだ?と肩に手を置かれ心臓が大きく跳ねた。憎たらしいほどに爽やかな声は驚くほどに冷えている。動かない首を無理やり回すと、声の主はいつもの通り底の見えない笑みを浮かべていたが、目だけは射抜くように僕を見つめていた。
この色男の名は馬場信春。武田の若き将であり晴信様の幼馴染みである。晴信様を幼名で呼ぶ数少ない人物であり、そして、晴信様の想い人だ。
こっそり覗いた後ろめたさもあるが、それ以上に彼の戦場のような鋭い眼光に肝が冷え、僕は何とか取り繕い大きな手から逃げ出すと慌てて屋敷へと駆け戻ったが、動悸は一向におさまらなかった。
布越しとはいえ初めて見る晴信様の身体は得も言われぬ美しさであり、とても同じ性とは思えなかった。
それから僕は晴信様を正面から見られなくなってしまった。見るとあの時の姿を思い出していてもたってもいられなくなる。けれど彼をもっと見ていたい、彼と一緒にいたいという欲求は収まることを知らず、自分自身で矛盾に呆れながらも劣情を抑えることができなかった。
そんな日々が続いたあくる日の戦の後、僕は晴信様の傍から離れていたことを後悔する。
館から少し離れた森の中。件の泉のほとりに人影を認めて近づいてみれば、そこにいたのは鎧姿のままの晴信様と木に手をつき逃げられないようにする馬場殿だった。手にかいた汗を気にせず音を立てないようにさらに歩みを進めると、耳を疑いたくなるような言葉が聞こえてきた。
馬場殿が晴信様に告白をしていたのだ。
切なそうに寄せられた眉に濡れた瞳を見ればとても冗談とは思えず、慌てて晴信様を見れば、彼は満更でもなさそうに頬を赤らめ瞳を輝かせていた。それもそのはず。晴信様は馬場殿を兄のように慕っており、幼名で呼ぶことを許し、誰よりも熱い視線を送る相手で……
気がつけば、僕は躑躅ヶ崎の館に戻っていた。何も知らない同僚に心配されたほどだから二人にも気づかれただろうとは思ったが、馬場殿はもちろん晴信様も何もそのことには触れず、まるで僕のことなど眼中にもないようで酷く腹立たしかった。
何よりも僕から晴信様を奪っていった馬場殿に殺意を覚え、僕はようやく晴信様への想いを自覚するに至ったのだった。
その後晴信様は自室に篭るようになったが、板垣殿と甘利殿に諭され父君を追放し、甲斐守護の地位を得た。
突然の謀反に甲斐国内は動揺したものの、晴信様を筆頭に多くの家臣が死力を尽くしたおかげでようやくこの館も落ち着きを取り戻してきた。けれども未だ動乱は続いており、晴信様は寝る間も惜しんで動き続けるものの、やはり着替える時だけは人払いをして自らのお手を煩わせていた。
それでもそんな日々にも終わりは来る。こんな気持ちにも終わりは来る。
きっかけは本当に単純なことだった。おそらく、僕も彼も気が緩んでいたのだろう。それでも晴信様と秘密を共有することになり、ある意味特別な存在になれたことには変わりはなかった。
けれども当時の僕にはそんな未来など知るわけもなく、ただただ身勝手な願いを隠し持つしかなかった。
嗚呼、晴信様が僕だけを見てくれればいいのに、と。
~後書き~
びっくりするくらい杜撰な出来で申し訳ありません。二日クオリティです。ごめんなさい。本当はもう一シーンだけでも書きたかったものの時間不足でした……。
『甲斐守護の秘密』本編では、この後秘密を知ってしまった源助に晴信が筆おろしをしてやる18禁展開となっております。馬場も出てきます。描けたら信玄時代の話も掲載する予定です。
この話の晴信視点もいつか描きたいものですが、凄いダークな話になってしまうため流石に自重した方がいいかなあ……。
次回こそは『甲斐守護の秘密』本編を出しますので、18歳以上の紳士淑女の方々はよろしければそちらも手にとってくださると幸いです。
読了誠にありがとうございました!